李陵

中島敦

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():ルビ
(例)(かん)

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(例)敵匈奴(きょうど)の勢力圏

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(例)辺塞遮虜※[#「章+おおざと」、第3水準1-92-79]
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 (かん)武帝(ぶてい)天漢(てんかん)二年秋九月、騎都尉(きとい)・李陵(りりょう)は歩卒五千を率い、辺塞遮虜※[#「章+おおざと」、第3水準1-92-79(へんさいしゃりょしょう)を発して北へ向かった。阿爾泰(アルタイ)山脈の東南端が戈壁沙漠(ゴビさばく)に没せんとする辺の磽※[#「石+角」、第3水準1-89-6(こうかく)たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風(さくふう)戎衣(じゅうい)を吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。漠北(ばくほく)・浚稽山(しゅんけいざん)(ふもと)に至って軍はようやく止営した。すでに敵匈奴(きょうど)の勢力圏に深く進み入っているのである。秋とはいっても北地のこととて、苜蓿(うまごやし)も枯れ、(にれ)や※[#「木+聖」、第3水準1-86-19]柳(かわやなぎ)の葉ももはや落ちつくしている。木の葉どころか、木そのものさえ(宿営地の近傍(きんぼう)を除いては)、容易に見つからないほどの、ただ砂と岩と(かわら)と、水のない河床との荒涼たる風景であった。極目人煙を見ず、まれに訪れるものとては曠野(こうや)に水を求める羚羊(かもしか)ぐらいのものである。突兀(とっこつ)と秋空を(くぎ)る遠山の上を高く(かり)の列が南へ急ぐのを見ても、しかし、将卒一同(だれ)一人として甘い懐郷の情などに(そそ)られるものはない。それほどに、彼らの位置は危険(きわ)まるものだったのである。
 騎兵を主力とする匈奴に向かって、一隊の騎馬兵をも連れずに歩兵ばかり(馬に(また)がる者は、陵とその幕僚(ばくりょう)数人にすぎなかった、)で奥地深く侵入することからして、無謀の(きわ)みというほかはない。その歩兵も(わず)か五千、絶えて後援はなく、しかもこの浚稽山(しゅんけいざん)は、最も近い漢塞(かんさい)居延(きょえん)からでも優に一千五百里(支那里程)は離れている。統率者李陵への絶対的な信頼と心服とがなかったならとうてい続けられるような行軍ではなかった。
 毎年秋風が立ちはじめると(きま)って漢の北辺には、胡馬(こば)(むち)うった剽悍(ひょうかん)な侵略者の大部隊が現われる。辺吏が殺され、人民が(かす)められ、家畜が奪略される。五原(ごげん)・朔方(さくほう)・雲中(うんちゅう)・上谷(じょうこく)・雁門(がんもん)などが、その例年の被害地である。大将軍衛青(えいせい)・嫖騎(ひょうき)将軍霍去病(かくきょへい)の武略によって一時漠南(ばくなん)に王庭なしといわれた元狩(げんしゅ)以後元鼎(げんてい)へかけての数年を除いては、ここ三十年来欠かすことなくこうした北辺の災いがつづいていた。霍去病(かくきょへい)が死んでから十八年、衛青(えいせい)歿(ぼっ)してから七年。※[#「さんずい+足」、第4水準2-78-51]野侯(さくやこう)趙破奴(ちょうはど)は全軍を率いて()(くだ)り、光禄勲(こうろくくん)徐自為(じょじい)朔北(さくほく)に築いた城障もたちまち破壊される。全軍の信頼を(つな)ぐに足る将帥(しょうすい)としては、わずかに先年大宛(だいえん)を遠征して武名を()げた弐師(じし)将軍李広利(りこうり)があるにすぎない。
 その年――天漢二年夏五月、――匈奴(きょうど)の侵略に先立って、弐師将軍が三万騎に将として酒泉(しゅせん)を出た。しきりに西辺を(うかが)う匈奴の右賢王(うけんおう)を天山に撃とうというのである。武帝は李陵に命じてこの軍旅の輜重(しちょう)のことに当たらせようとした。未央宮(びおうきゅう)武台殿(ぶだいでん)に召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請うた。陵は、飛将軍(ひしょうぐん)と呼ばれた名将李広(りこう)の孫。つとに祖父の風ありといわれた騎射(きしゃ)の名手で、数年前から騎都尉(きとい)として西辺の酒泉(しゅせん)・張掖(ちょうえき)()って(しゃ)を教え兵を練っていたのである。年齢もようやく四十に近い血気盛りとあっては、輜重(しちょう)の役はあまりに情けなかったに違いない。臣が辺境に養うところの兵は皆荊楚(けいそ)の一騎当千の勇士なれば、願わくは彼らの一隊を率いて討って()で、側面から匈奴の軍を牽制(けんせい)したいという陵の嘆願には、武帝も(うなず)くところがあった。しかし、相つづく諸方への派兵のために、あいにく、陵の軍に()くべき騎馬の余力がないのである。李陵はそれでも構わぬといった。確かに無理とは思われたが、輜重(しちょう)の役などに当てられるよりは、むしろ(おのれ)のために身命を惜しまぬ部下五千とともに危うきを(おか)すほうを選びたかったのである。臣願わくは少をもって衆を撃たんといった陵の言葉を、派手(はで)好きな武帝は大いに(よろこ)んで、その願いを()れた。李陵は西、張掖(ちょうえき)に戻って部下の兵を(ろく)するとすぐに北へ向けて進発した。当時居延(きょえん)(たむろ)していた彊弩都尉(きょうどとい)路博徳(ろはくとく)が詔を受けて、陵の軍を中道まで迎えに出る。そこまではよかったのだが、それから先がすこぶる(まず)いことになってきた。元来この路博徳(ろはくとく)という男は古くから霍去病(かくきょへい)の部下として軍に従い、※[#「丕+おおざと」、第3水準1-92-64]離侯(ふりこう)にまで封ぜられ、ことに十二年前には伏波(ふくは)将軍として十万の兵を率いて南越(なんえつ)を滅ぼした老将である。その後、法に()して侯を失い現在の地位に(おと)されて西辺を守っている。年齢からいっても、李陵とは父子ほどに違う。かつては封侯(ほうこう)をも得たその老将がいまさら若い李陵ごときの後塵(こうじん)を拝するのがなんとしても不愉快だったのである。彼は陵の軍を迎えると同時に、都へ使いをやって奏上させた。今まさに秋とて匈奴(きょうど)の馬は肥え、寡兵(かへい)をもってしては、騎馬戦を得意とする彼らの鋭鋒(えいほう)には(いささ)か当たりがたい。それゆえ、李陵とともにここに越年し、春を待ってから、酒泉(しゅせん)・張掖(ちょうえき)の騎各五千をもって出撃したほうが得策と信ずるという上奏文である。もちろん、李陵はこのことをしらない。武帝はこれを見ると(ひど)く怒った。李陵が博徳と相談の上での上書と考えたのである。わが前ではあのとおり広言しておきながら、いまさら辺地に行って急に怯気(おじけ)づくとは何事ぞという。たちまち使いが都から博徳と陵の所に飛ぶ。李陵は少をもって衆を撃たんとわが前で広言したゆえ、(なんじ)はこれと協力する必要はない。今匈奴が西河(せいが)に侵入したとあれば、(なんじ)はさっそく陵を残して西河に()せつけ敵の道を(さえぎ)れ、というのが博徳への詔である。李陵への詔には、ただちに漠北(ばくほく)に至り東は浚稽山(しゅんけいざん)から南は竜勒水(りょうろくすい)の辺までを偵察観望し、もし異状なくんば、※[#「さんずい+足」、第4水準2-78-51]野侯(さくやこう)の故道に従って受降城(じゅこうじょう)に至って士を休めよとある。博徳と相談してのあの上書はいったいなんたることぞ、という(はげ)しい詰問(きつもん)のあったことは言うまでもない。寡兵(かへい)をもって敵地に徘徊(はいかい)することの危険を別としても、なお、指定されたこの数千里の行程は、騎馬を持たぬ軍隊にとってははなはだむずかしいものである。徒歩のみによる行軍の速度と、人力による車の牽引(けんいん)力と、冬へかけての胡地(こち)の気候とを考えれば、これは誰にも明らかであった。武帝はけっして庸王(ようおう)ではなかったが、同じく庸王ではなかった(ずい)煬帝(ようだい)始皇帝(しこうてい)などと共通した長所と短所とを()っていた。愛寵(あいちょう)比なき()夫人の兄たる弐師(じし)将軍にしてからが兵力不足のためいったん、大宛(だいえん)から引揚げようとして帝の逆鱗(げきりん)にふれ、玉門関(ぎょくもんかん)をとじられてしまった。その大宛征討も、たかだか善馬がほしいからとて思い立たれたものであった。帝が一度言出したら、どんな我儘(わがまま)でも絶対に通されねばならぬ。まして、李陵の場合は、もともと(みずか)()うた役割でさえある。(ただ季節と距離とに相当に無理な注文があるだけで)躊躇(ちゅうちょ)すべき理由はどこにもない。彼は、かくて、「騎兵を伴わぬ北征」に出たのであった。

 浚稽山(しゅんけいざん)の山間には十日余(とど)まった。その間、日ごとに斥候(せっこう)を遠く派して敵状を探ったのはもちろん、附近の山川地形を(あま)すところなく図に写しとって都へ報告しなければならなかった。報告書は麾下(きか)陳歩楽(ちんほらく)という者が身に帯びて、単身都へ()せるのである。選ばれた使者は、李陵(りりょう)一揖(いちゆう)してから、十頭に足らぬ少数の馬の中の一匹に打跨(うちまたが)ると、一鞭(ひとむち)あてて丘を駈下(かけお)りた。灰色に乾いた漠々(ばくばく)たる風景の中に、その姿がしだいに小さくなっていくのを、一軍の将士は何か心細い気持で見送った。
 十日の間、浚稽山(しゅんけいざん)の東西三十里の中には一人の胡兵(こへい)をも見なかった。
 彼らに先だって夏のうちに天山へと出撃した弐師(じし)将軍はいったん右賢王(うけんおう)を破りながら、その帰途別の匈奴(きょうど)の大軍に囲まれて惨敗(ざんぱい)した。漢兵は十に六、七を討たれ、将軍の一身さえ危うかったという。その(うわさ)は彼らの耳にも届いている。李広利(りこうり)を破ったその敵の主力が今どのあたりにいるのか? 今、因※[#「木+于」、10-7(いんう)将軍公孫敖(こうそんごう)西河(せいが)・朔方(さくほう)の辺で(ふせ)いでいる((りょう)と手を分かった路博徳(ろはくとく)はその応援に()せつけて行ったのだが)という敵軍は、どうも、距離と時間とを計ってみるに、問題の敵の主力ではなさそうに思われる。天山から、そんなに早く、東方四千里の河南(かなん)(オルドス)の地まで行けるはずがないからである。どうしても匈奴(きょうど)の主力は現在、陵の軍の止営地から北方|※[#「到」の「りっとう」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-67]居水(しっきょすい)までの間あたりに(たむろ)していなければならない勘定になる。李陵自身毎日前山の頂に立って四方を(なが)めるのだが、東方から南へかけてはただ漠々(ばくばく)たる一面の平沙(へいさ)、西から北へかけては樹木に乏しい丘陵性の山々が連なっているばかり、秋雲の間にときとして(たか)(はやぶさ)かと思われる鳥の影を見ることはあっても、地上には一騎の胡兵(こへい)をも見ないのである。
 山峡の疎林の(はず)れに兵車を並べて囲い、その中に帷幕(いばく)を連ねた陣営である。夜になると、気温が急に下がった。士卒は乏しい木々を折取って()いては暖をとった。十日もいるうちに月はなくなった。空気の乾いているせいか、ひどく星が美しい。黒々とした山影とすれすれに、夜ごと、狼星(ろうせい)が、青白い光芒(こうぼう)を斜めに()いて輝いていた。十数日事なく過ごしたのち、明日はいよいよここを立退(たちの)いて、指定された進路を東南へ向かって取ろうと決したその晩である。一人の歩哨(ほしょう)が見るともなくこの爛々(らんらん)たる狼星(ろうせい)を見上げていると、突然、その星のすぐ下の所にすこぶる大きい赤黄色い星が現われた。オヤと思っているうちに、その見なれぬ(おお)きな星が赤く太い尾を引いて動いた。と続いて、二つ三つ四つ五つ、同じような光がその周囲に現われて、動いた。思わず歩哨(ほしょう)が声を立てようとしたとき、それらの遠くの()はフッと一時に消えた。まるで今見たことが夢だったかのように。
 歩哨(ほしょう)の報告に接した李陵(りりょう)は、全軍に命じて、明朝天明とともにただちに戦闘に入るべき準備を整えさせた。外に出て一応各部署を点検し終わると、ふたたび幕営に入り、(らい)のごとき鼾声(かんせい)を立てて熟睡した。
 翌朝李陵が目を()まして外へ出て見ると、全軍はすでに昨夜の命令どおりの陣形をとり、静かに敵を待ち構えていた。全部が、兵車を並べた外側に出、(ほこ)(たて)とを持った者が前列に、弓弩(きゅうど)を手にした者が後列にと配置されているのである。この谷を(はさ)んだ二つの山はまだ暁暗(ぎょうあん)の中に森閑(しんかん)とはしているが、そこここの巌蔭(いわかげ)に何かのひそんでいるらしい気配(けはい)がなんとなく感じられる。
 朝日の影が谷合にさしこんでくると同時に、(匈奴(きょうど)は、単于(ぜんう)がまず朝日を拝したのちでなければ事を発しないのであろう。)今まで何一つ見えなかった両山の頂から斜面にかけて、無数の人影が一時に()いた。天地を(ゆる)がす喊声(かんせい)とともに胡兵(こへい)は山下に殺到した。胡兵の先登(せんとう)が二十歩の距離に迫ったとき、それまで鳴りをしずめていた漢の陣営からはじめて鼓声(こせい)が響く。たちまち千弩(せんど)ともに発し、弦に応じて数百の胡兵(こへい)はいっせいに倒れた。間髪(かんはつ)を入れず、浮足立った残りの胡兵に向かって、漢軍前列の持戟者(じげきしゃ)らが襲いかかる。匈奴(きょうど)の軍は完全に(つい)えて、山上へ逃げ上った。漢軍これを追撃して虜首(りょしゅ)を挙げること数千。
 (あざ)やかな勝ちっぷりではあったが、執念深い敵がこのままで退くことはけっしてない。今日の敵軍だけでも優に三万はあったろう。それに、山上に(なび)いていた旗印から見れば、紛れもなく単于(ぜんう)の親衛軍である。単于がいるものとすれば、八万や十万の後詰(ごづ)めの軍は当然繰出されるものと覚悟せねばならぬ。李陵は即刻この地を撤退して南へ移ることにした。それもここから東南二千里の受降城(じゅこうじょう)へという前日までの予定を変えて、半月前に辿(たど)って来たその同じ道を南へ取って一日も早くもとの居延塞(きょえんさい)(それとて千数百里離れているが)に入ろうとしたのである。
 南行三日めの(ひる)、漢軍の後方はるか北の地平線に、雲のごとく黄塵(こうじん)の揚がるのが見られた。匈奴騎兵の追撃である。翌日はすでに八万の胡兵が騎馬の快速を利して、漢軍の前後左右を(すき)もなく取囲んでしまっていた。ただし、前日の失敗に()りたとみえ、至近の距離にまでは近づいて来ない。南へ行進して行く漢軍を遠巻きにしながら、馬上から遠矢を射かけるのである。李陵が全軍を()めて、戦闘の体形をとらせれば、敵は馬を駆って遠く退き、搏戦(はくせん)を避ける。ふたたび行軍をはじめれば、また近づいて来て矢を射かける。行進の速度が著しく減ずるのはもとより、死傷者も一日ずつ確実に()えていくのである。飢え疲れた旅人の後をつける曠野(こうや)の狼のように、匈奴の兵はこの戦法を続けつつ執念深く追って来る。少しずつ傷つけていった揚句(あげく)、いつかは最後の(とど)めを刺そうとその機会を(うかが)っているのである。
 かつ戦い、かつ退きつつ南行することさらに数日、ある山谷の中で漢軍は一日の休養をとった。負傷者もすでにかなりの数に上っている。李陵(りりょう)は全員を点呼して、被害状況を調べたのち、傷の一か所にすぎぬ者には平生どおり兵器を()って闘わしめ、両創を(こうむ)る者にもなお兵車を助け()さしめ、三創にしてはじめて(れん)に乗せて(たす)け運ぶことに決めた。輸送力の欠乏から屍体(したい)はすべて曠野(こうや)に遺棄するほかはなかったのである。この夜、陣中視察のとき、李陵はたまたまある輜重車(しちょうしゃ)中に男の服を(まと)うた女を発見した。全軍の車輛(しゃりょう)について一々調べたところ、同様にしてひそんでいた十数人の女が捜し出された。往年関東の群盗が一時に(りく)()ったとき、その妻子等が()われて西辺に(うつ)り住んだ。それら寡婦(かふ)のうち衣食に窮するままに、辺境守備兵の妻となり、あるいは彼らを華客(とくい)とする娼婦(しょうふ)となり果てた者が少なくない。兵車中に隠れてはるばる漠北(ばくほく)まで従い来たったのは、そういう連中である。李陵は軍吏に女らを()るべくカンタンに命じた。彼女らを伴い来たった士卒については一言のふれるところもない。澗間(たにま)凹地(おうち)に引出された女どもの疳高(かんだか)号泣(ごうきゅう)がしばらくつづいた後、突然それが夜の沈黙に()まれたようにフッと消えていくのを、軍幕の中の将士一同は粛然(しゅくぜん)たる思いで聞いた。
 翌朝、久しぶりで肉薄来襲した敵を迎えて漢の全軍は思いきり快戦した。敵の遺棄屍体(したい)三千余。連日の執拗(しつよう)なゲリラ戦術に久しくいらだち屈していた士気が(にわ)かに(ふる)い立った形である。次の日からまた、もとの竜城(りゅうじょう)の道に(したが)って、南方への退行が始まる。匈奴(きょうど)はまたしても、元の遠巻き戦術に(かえ)った。五日め、漢軍は、平沙(へいさ)の中にときに見出(みいだ)される沼沢地(しょうたくち)の一つに踏入った。水は半ば凍り、泥濘(でいねい)(はぎ)を没する深さで、行けども行けども果てしない枯葦原(かれあしはら)が続く。風上(かざかみ)(まわ)った匈奴の一隊が火を放った。朔風(さくふう)(ほのお)(あお)り、真昼の空の下に白っぽく輝きを失った火は、すさまじい速さで漢軍に迫る。李陵はすぐに附近の(あし)に迎え火を放たしめて、かろうじてこれを防いだ。火は防いだが、沮洳地(そじょち)の車行の困難は言語に絶した。休息の地のないままに一夜泥濘(でいねい)の中を歩き通したのち、翌朝ようやく丘陵地に辿(たど)りついたとたんに、先廻(さきまわ)りして待伏せていた敵の主力の襲撃に()った。人馬入乱れての搏兵(はくへい)戦である。騎馬隊の(はげ)しい突撃を避けるため、李陵は車を()てて、山麓(さんろく)の疎林の中に戦闘の場所を移し入れた。林間からの猛射はすこぶる効を奏した。たまたま陣頭に姿を現わした単于(ぜんう)とその親衛隊とに向かって、一時に連弩(れんど)を発して乱射したとき、単于の白馬は前脚を高くあげて棒立ちとなり、青袍(せいほう)をまとった胡主(こしゅ)はたちまち地上に投出された。親衛隊の二騎が馬から下りもせず、左右からさっと単于を(すく)い上げると、全隊がたちまちこれを中に囲んですばやく退いて行った。乱闘数刻ののちようやく執拗(しつよう)な敵を撃退しえたが、確かに今までにない難戦であった。遺された敵の屍体(したい)はまたしても数千を算したが、漢軍も千に近い戦死者を出したのである。
 この日捕えた胡虜(こりょ)の口から、敵軍の事情の一端を知ることができた。それによれば、単于(ぜんう)は漢兵の手強(てごわ)さに驚嘆し、(おのれ)に二十倍する大軍をも(おそ)れず日に日に南下して我を誘うかに見えるのは、あるいはどこか近くに、伏兵があって、それを(たの)んでいるのではないかと疑っているらしい。前夜その疑いを単于が幹部の諸将に()らして事を計ったところ、結局、そういう疑いも確かにありうるが、ともかくも、単于自ら数万騎を率いて漢の寡勢(かぜい)を滅しえぬとあっては、我々の面目に係わるという主戦論が勝ちを制し、これより南四、五十里は山谷がつづくがその間力戦猛攻し、さて平地に出て一戦してもなお破りえないとなったそのときはじめて兵を北に(かえ)そうということに決まったという。これを聞いて、校尉(こうい)韓延年(かんえんねん)以下漢軍の幕僚(ばくりょう)たちの頭に、あるいは助かるかもしれぬぞという希望のようなものが(かす)かに()いた。
 翌日からの胡軍(こぐん)の攻撃は猛烈を極めた。捕虜(ほりょ)の言の中にあった最後の猛攻というのを始めたのであろう。襲撃は一日に十数回繰返された。手厳(てきび)しい反撃を加えつつ漢軍は徐々に南に移って行く。三日()つと平地に出た。平地戦になると倍加される騎馬隊の威力にものを言わせ匈奴(きょうど)らは遮二無二(しゃにむに)漢軍を圧倒しようとかかったが、結局またも二千の屍体(したい)(のこ)して退いた。捕虜の言が偽りでなければ、これで胡軍は追撃を打切るはずである。たかが一兵卒の言った言葉ゆえ、それほど信頼できるとは思わなかったが、それでも幕僚(ばくりょう)一同(いささ)かホッとしたことは争えなかった。
 その晩、漢の軍侯(ぐんこう)管敢(かんかん)という者が陣を脱して匈奴の軍に()(くだ)った。かつて長安(ちょうあん)都下の悪少年だった男だが、前夜斥候(せっこう)上の手抜かりについて校尉(こうい)・成安侯(せいあんこう)韓延年(かんえんねん)のために衆人の前で面罵(めんば)され、(むち)打たれた。それを含んでこの挙に出たのである。先日渓間(たにま)(ざん)に遭った女どもの一人が彼の妻だったとも言う。管敢は匈奴の捕虜の自供した言葉を知っていた。それゆえ、胡陣(こじん)()げて単于(ぜんう)の前に引出されるや、伏兵を(おそ)れて引上げる必要のないことを力説した。言う、漢軍には後援がない。矢もほとんど尽きようとしている。負傷者も続出して行軍は難渋(なんじゅう)を極めている。漢軍の中心をなすものは、()将軍および成安侯韓延年の率いる各八百人だが、それぞれ黄と白との()をもって印としているゆえ、明日胡騎(こき)の精鋭をしてそこに攻撃を集中せしめてこれを破ったなら、他は容易に潰滅(かいめつ)するであろう、云々(うんぬん)単于(ぜんう)は大いに喜んで厚く敢を遇し、ただちに北方への引上げ命令を取消した。
 翌日、李陵(りりょう)韓延年(かんえんねん)(すみや)かに(くだ)れと疾呼(しっこ)しつつ、胡軍の最精鋭は、黄白の()を目ざして襲いかかった。その勢いに漢軍は、しだいに平地から西方の山地へと押されて行く。ついに本道から(はる)かに離れた山谷の間に追込まれてしまった。四方の山上から敵は矢を雨のごとくに(そそ)いだ。それに応戦しようにも、今や矢が完全に尽きてしまった。遮虜※[#「章+おおざと」、第3水準1-92-79(しゃりょしょう)を出るとき各人が百本ずつ携えた五十万本の矢がことごとく射尽くされたのである。矢ばかりではない。全軍の刀槍矛戟(とうそうぼうげき)の類も半ばは折れ欠けてしまった。文字どおり刀折れ矢尽きたのである。それでも、(ほこ)を失ったものは車輻(しゃふく)()ってこれを持ち、軍吏(ぐんり)尺刀(せきとう)を手にして防戦した。谷は奥へ進むに従っていよいよ(せま)くなる。胡卒(こそつ)は諸所の(がけ)の上から大石を投下しはじめた。矢よりもこのほうが確実に漢軍の死傷者を増加させた。死屍(しし)と※[#「壘」の「土」に代えて「糸」、第3水準1-90-24]石(るいせき)とでもはや前進も不可能になった。
 その夜、李陵は小袖短衣(しょうしゅうたんい)便衣(べんい)を着け、誰もついて来るなと禁じて独り幕営の外に出た。月が山の(かい)から(のぞ)いて谷間に(うずたか)(しかばね)を照らした。浚稽山(しゅんけいざん)の陣を撤するときは夜が暗かったのに、またも月が明るくなりはじめたのである。月光と満地の霜とで片岡(かたおか)の斜面は水に()れたように見えた。幕営の中に残った将士は、李陵の服装からして、彼が単身敵陣を(うかが)ってあわよくば単于と刺違える所存に違いないことを察した。李陵はなかなか戻って来なかった。彼らは息をひそめてしばらく外の様子を(うかが)った。遠く山上の敵塁から胡笳(こか)の声が響く。かなり久しくたってから、音もなく(とばり)をかかげて李陵が幕の内にはいって来た。だめだ。と一言吐き出すように言うと、踞牀(きょしょう)に腰を(おろ)した。全軍斬死(ざんし)のほか、(みち)はないようだなと、またしばらくしてから、誰に向かってともなく言った。満座口を開く者はない。ややあって軍吏(ぐんり)の一人が口を切り、先年|※[#「さんずい+足」、第4水準2-78-51]野侯(さくやこう)趙破奴(ちょうはど)胡軍(こぐん)のために生擒(いけど)られ、数年後に漢に()げ帰ったときも、武帝はこれを罰しなかったことを語った。この例から考えても、寡兵(かへい)をもって、かくまで匈奴(きょうど)震駭(しんがい)させた李陵(りりょう)であってみれば、たとえ都へのがれ帰っても、天子はこれを遇する(みち)を知りたもうであろうというのである。李陵はそれを(さえぎ)って言う。陵一個のことはしばらく()け、とにかく、今数十矢もあれば一応は囲みを脱出することもできようが、一本の矢もないこの有様(ありさま)では、明日の天明には全軍が()して(ばく)を受けるばかり。ただ、今夜のうちに囲みを突いて外に出、各自鳥獣と散じて走ったならば、その中にはあるいは辺塞(へんさい)辿(たど)りついて、天子に軍状を報告しうる者もあるかもしれぬ。案ずるに現在の地点は※[#「革+是」、第3水準1-93-79]汗山(ていかんざん)北方の山地に違いなく、居延(きょえん)まではなお数日の行程ゆえ、成否のほどはおぼつかないが、ともかく今となっては、そのほかに残された(みち)はないではないか。諸将僚もこれに(うなず)いた。全軍の将卒に各二升の(ほしいい)と一個の冰片(ひょうへん)とが(わか)たれ、遮二無二(しゃにむに)、遮虜※[#「章+おおざと」、第3水準1-92-79(しゃりょしょう)に向かって走るべき旨がふくめられた。さて、一方、ことごとく漢陣の旌旗(せいき)を倒しこれを()って地中に埋めたのち、武器兵車等の敵に利用されうる(おそ)れのあるものも皆打毀(うちこわ)した。夜半、()して兵を起こした。軍鼓(ぐんこ)の音も(さん)として響かぬ。李陵は韓校尉(かんこうい)とともに馬に(また)がり壮士十余人を従えて先登(せんとう)に立った。この日追い込まれた峡谷(きょうこく)の東の口を破って平地に出、それから南へ向けて走ろうというのである。
 早い月はすでに落ちた。胡虜(こりょ)の不意を()いて、ともかくも全軍の三分の二は予定どおり峡谷の裏口を突破した。しかしすぐに敵の騎馬兵の追撃に()った。徒歩の兵は大部分討たれあるいは捕えられたようだったが、混戦に乗じて敵の馬を奪った数十人は、その胡馬(こば)(むち)うって南方へ走った。敵の追撃をふり切って夜目にもぼっと白い平沙(へいさ)の上を、のがれ去った部下の数を数えて、確かに百に余ることを確かめうると、李陵(りりょう)はまた峡谷の入口の修羅場(しゅらば)にとって返した。身には数創を帯び、(みずか)らの血と返り血とで、戎衣(じゅうい)は重く()れていた。彼と並んでいた韓延年(かんえんねん)はすでに討たれて戦死していた。麾下(きか)を失い全軍を失って、もはや天子に(まみ)ゆべき面目はない。彼は(ほこ)を取直すと、ふたたび乱軍の中に駈入(かけい)った。暗い中で敵味方も分らぬほどの乱闘のうちに、李陵の馬が流矢(ながれや)に当たったとみえてガックリ前にのめった。それとどちらが早かったか、前なる敵を突こうと(ほこ)を引いた李陵は、突然背後から重量のある打撃を後頭部に(くら)って失神した。馬から顛落(てんらく)した彼の上に、生擒(いけど)ろうと構えた胡兵(こへい)どもが十重二十重(とえはたえ)とおり重なって、とびかかった。


 九月に北へ立った五千の漢軍(かんぐん)は、十一月にはいって、疲れ傷ついて将を失った四百足らずの敗兵となって辺塞(へんさい)辿(たど)りついた。敗報はただちに駅伝(えきでん)をもって長安(ちょうあん)の都に達した。
 武帝(ぶてい)は思いのほか腹を立てなかった。本軍たる李広利(りこうり)の大軍さえ惨敗(ざんぱい)しているのに、一支隊たる李陵の寡軍(かぐん)にたいした期待のもてよう道理がなかったから。それに彼は、李陵が必ずや戦死しているに違いないとも思っていたのである。ただ、先ごろ李陵の使いとして漠北(ばくほく)から「戦線異状なし、士気すこぶる旺盛(おうせい)」の報をもたらした陳歩楽(ちんほらく)だけは(彼は吉報の使者として(よみ)せられ(ろう)となってそのまま都に(とど)まっていた)成行上どうしても自殺しなければならなかった。哀れではあったが、これはやむを得ない。
 翌、天漢(てんかん)三年の春になって、李陵(りりょう)は戦死したのではない。捕えられて()に降ったのだという確報が届いた。武帝ははじめて嚇怒(かくど)した。即位後四十余年。帝はすでに六十に近かったが、気象の(はげ)しさは壮時に超えている。神仙(しんせん)の説を好み方士巫覡(ほうしふげき)の類を信じた彼は、それまでに(おのれ)の絶対に尊信する方士どもに幾度か(あざむ)かれていた。漢の勢威の絶頂に当たって五十余年の間君臨したこの大皇帝は、その中年以後ずっと、霊魂の世界への不安な関心に執拗(しつよう)につきまとわれていた。それだけに、その方面での失望は彼にとって大きな打撃となった。こうした打撃は、生来闊達(かったつ)だった彼の心に、年とともに群臣への暗い猜疑(さいぎ)を植えつけていった。李蔡(りさい)・青霍(せいかく)・趙周(ちょうしゅう)と、丞相(じょうしょう)たる者は相ついで死罪に行なわれた。現在の丞相たる公孫賀(こうそんが)のごとき、命を拝したときに(おの)が運命を恐れて帝の前で手離しで泣出したほどである。硬骨漢(こうこつかん)汲黯(きゅうあん)が退いた後は、帝を取巻くものは、佞臣(ねいしん)にあらずんば酷吏(こくり)であった。
 さて、武帝は諸重臣を召して李陵の処置について計った。李陵の身体は都にはないが、その罪の決定によって、彼の妻子眷属(けんぞく)家財などの処分が行なわれるのである。酷吏として聞こえた一廷尉(ていい)が常に帝の顔色を(うかが)い合法的に法を()げて帝の意を迎えることに巧みであった。ある人が法の権威を説いてこれを(なじ)ったところ、これに答えていう。前主の()とするところこれが(りつ)となり、後主の是とするところこれが(りょう)となる。当時の君主の意のほかになんの法があろうぞと。群臣皆この廷尉の類であった。丞相(じょうしょう)公孫賀(こうそんが)御史大夫(ぎょしたいふ)杜周(としゅう)太常(たいじょう)趙弟(ちょうてい)以下、誰一人として、帝の震怒(しんど)を犯してまで陵のために弁じようとする者はない。口を極めて彼らは李陵の売国的行為を(ののし)る。陵のごとき変節漢(へんせつかん)と肩を比べて(ちょう)に仕えていたことを思うといまさらながら()ずかしいと言出した。平生の陵の行為の一つ一つがすべて疑わしかったことに意見が一致した。陵の従弟(いとこ)に当たる李敢(りかん)が太子の(ちょう)を頼んで驕恣(きょうし)であることまでが、陵への誹謗(ひぼう)の種子になった。口を(かん)して意見を()らさぬ者が、結局陵に対して最大の好意を()つものだったが、それも数えるほどしかいない。
 ただ一人、苦々しい顔をしてこれらを見守っている男がいた。今口を極めて李陵を讒誣(ざんぶ)しているのは、数か月前李陵が都を辞するときに(さかずき)をあげて、その行を(さか)んにした連中ではなかったか。漠北(ばくほく)からの使者が来て李陵の軍の健在を伝えたとき、さすがは名将李広(りこう)の孫と李陵の孤軍奮闘を(たた)えたのもまた同じ連中ではないのか。(てん)として既往を忘れたふりのできる顕官(けんかん)連や、彼らの諂諛(てんゆ)を見破るほどに聡明(そうめい)ではありながらなお真実に耳を傾けることを(きら)う君主が、この男には不思議に思われた。いや、不思議ではない。人間がそういうものとは昔からいやになるほど知ってはいるのだが、それにしてもその不愉快さに変わりはないのである。下大夫(かたいふ)の一人として(ちょう)につらなっていたために彼もまた下問を受けた。そのとき、この男はハッキリと李陵を()め上げた。言う。陵の平生を見るに、親に(つか)えて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みずもって国家の急に殉ずるは(まこと)に国士のふうありというべく、今不幸にして事一(たび)破れたが、身を全うし妻子を(やす)んずることをのみただ念願とする君側の佞人(ねいじん)ばらが、この陵の一失(いっしつ)を取上げてこれを誇大歪曲(わいきょく)しもって(しょう)の聡明を(おお)おうとしているのは、遺憾(いかん)この上もない。そもそも陵の今回の軍たる、五千にも満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、匈奴(きょうど)数万の師を奔命(ほんめい)に疲れしめ、転戦千里、矢尽き道(きわ)まるに至るもなお全軍空弩(くうど)を張り、白刃(はくじん)を冒して死闘している。部下の心を得てこれに死力を尽くさしむること、(いにしえ)の名将といえどもこれには過ぎまい。軍敗れたりとはいえ、その善戦のあとはまさに天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずして()(くだ)ったというのも、ひそかにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。……
 並いる群臣は驚いた。こんなことのいえる男が世にいようとは考えなかったからである。彼らはこめかみを(ふる)わせた武帝の顔を恐る恐る見上げた。それから、自分らをあえて全躯保妻子(くをまっとうしさいしをたもつ)の臣と呼んだこの男を待つものが何であるかを考えて、ニヤリとするのである。
 向こう見ずなその男――太史令(たいしれい)・司馬遷(しばせん)が君前を退くと、すぐに、「全躯保妻子(くをまっとうしさいしをたもつ)の臣」の一人が、(せん)李陵(りりょう)との親しい関係について武帝の耳に入れた。太史令は(ゆえ)あって弐師(じし)将軍と(げき)あり、遷が陵を()めるのは、それによって、今度、陵に先立って出塞(しゅっさい)して功のなかった弐師将軍を(おとしい)れんがためであると言う者も出てきた。ともかくも、たかが星暦卜祀(せいれきぼくし)(つかさど)るにすぎぬ太史令の身として、あまりにも不遜(ふそん)な態度だというのが、一同の一致した意見である。おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。翌日、彼は廷尉(ていい)に下された。刑は(きゅう)と決まった。
 支那(しな)で昔から行なわれた肉刑(にくけい)(おも)なるものとして、(けい)、※[#「鼻+りっとう」、第3水準1-14-65()(はなきる)、※[#「非+りっとう」、第4水準2-3-25()(あしきる)、(きゅう)、の四つがある。武帝の祖父・文帝(ぶんてい)のとき、この四つのうち三つまでは廃せられたが、宮刑(きゅうけい)のみはそのまま残された。宮刑とはもちろん、男を男でなくする奇怪な刑罰である。これを一に腐刑(ふけい)ともいうのは、その(きず)が腐臭を放つがゆえだともいい、あるいは、腐木(ふぼく)の実を生ぜざるがごとき男と成り果てるからだともいう。この刑を受けた者を閹人(えんじん)と称し、宮廷の宦官(かんがん)の大部分がこれであったことは言うまでもない。人もあろうに司馬遷(しばせん)がこの刑に()ったのである。しかし、後代の我々が史記(しき)の作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令(たいしれい)司馬遷は(びょう)たる一文筆の()にすぎない。頭脳の明晰(めいせき)なことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっして他人(ひと)に負けない男、たかだか強情我慢の偏窟人(へんくつじん)としてしか知られていなかった。彼が腐刑(ふけい)()ったからとて別に驚く者はない。
 司馬氏は(もと)(しゅう)の史官であった。後、(しん)に入り、(しん)に仕え、(かん)の代となってから四代目の司馬談(しばたん)が武帝に仕えて建元(けんげん)年間に太史令(たいしれい)をつとめた。この談が遷の父である。専門たる(りつ)・暦(れき)・易(えき)のほかに道家(どうか)の教えに(くわ)しくまた(ひろ)(じゅ)(ぼく)(ほう)(めい)諸家(しょか)の説にも通じていたが、それらをすべて一家の(けん)をもって()べて自己のものとしていた。(おのれ)の頭脳や精神力についての自信の強さはそっくりそのまま息子(むすこ)の遷に受嗣(うけつ)がれたところのものである。彼が、息子に施した最大の教育は、諸学の伝授を終えてのちに、海内(かいだい)の大旅行をさせたことであった。当時としては変わった教育法であったが、これが後年の歴史家司馬遷に資するところのすこぶる大であったことは、いうまでもない。
 元封(げんぽう)元年に武帝が東、泰山(たいざん)に登って天を祭ったとき、たまたま周南(しゅうなん)で病床にあった熱血漢(ねっけつかん)司馬談(しばたん)は、天子始めて漢家の(ほう)を建つるめでたきときに、(おのれ)一人従ってゆくことのできぬのを(なげ)き、憤を発してそのために死んだ。古今を一貫せる通史(つうし)の編述こそは彼の一生の念願だったのだが、単に材料の蒐集(しゅうしゅう)のみで終わってしまったのである。その臨終(りんじゅう)の光景は息子・遷(せん)の筆によって詳しく史記(しき)の最後の章に描かれている。それによると司馬談は己のまた()ちがたきを知るや遷を呼びその手を()って、(ねんご)ろに修史(しゅうし)の必要を説き、(おのれ)太史(たいし)となりながらこのことに着手せず、賢君忠臣の事蹟(じせき)(むな)しく地下に埋もれしめる不甲斐(ふがい)なさを(なげ)いて泣いた。「()死せば(なんじ)必ず太史とならん。太史とならばわが論著せんと欲するところを忘るるなかれ」といい、これこそ己に対する孝の最大なものだとて、(なんじ)それ(おも)えやと繰返したとき、遷は俯首流涕(ふしゅりゅうてい)してその命に(そむ)かざるべきを誓ったのである。
 父が死んでから二年ののち、はたして、司馬遷(しばせん)太史令(たいしれい)の職を継いだ。父の蒐集(しゅうしゅう)した資料と、宮廷所蔵の秘冊とを用いて、すぐにも父子相伝(ふしそうでん)の天職にとりかかりたかったのだが、任官後の彼にまず課せられたのは暦の改正という事業であった。この仕事に没頭することちょうど満四年。太初(たいしょ)元年にようやくこれを仕上げると、すぐに彼は史記(しき)編纂(へんさん)に着手した。遷、ときに年四十二。
 腹案はとうにでき上がっていた。その腹案による史書の形式は従来の史書のどれにも似ていなかった。彼は道義的批判の規準を示すものとしては春秋(しゅんじゅう)を推したが、事実を伝える史書としてはなんとしてもあきたらなかった。もっと事実が欲しい。教訓よりも事実が。左伝(さでん)国語(こくご)になると、なるほど事実[#「事実」に傍点]はある。左伝の叙事の巧妙さに至っては感嘆のほかはない。しかし、その事実を作り上げる一人一人の人についての探求がない。事件の中における彼らの姿の描出は(あざ)やかであっても、そうしたことをしでかすまでに至る彼ら一人一人の身許(みもと)調べの欠けているのが、司馬遷(しばせん)には不服だった。それに従来の史書はすべて、当代の者に既往をしらしめることが主眼となっていて、未来の者に当代を知らしめるためのものとしての用意があまりに欠けすぎているようである。要するに、司馬遷の欲するものは、在来の史には求めて得られなかった。どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げてみてはじめて判然する(てい)のものと思われた。彼の胸中にあるモヤモヤと鬱積(うっせき)したものを書き現わすことの要求のほうが、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものを(つく)るという形でしか現われないのである。自分が長い間頭の中で(えが)いてきた構想が、史といえるものか、彼には自信はなかった。しかし、史といえてもいえなくても、とにかくそういうものが最も書かれなければならないものだ(世人にとって、後代にとって、なかんずく己自身にとって)という点については、自信があった。彼も孔子(こうし)(なら)って、述べて作らぬ方針をとったが、しかし、孔子のそれとはたぶんに内容を(こと)にした述而不作(のべてつくらず)である、司馬遷にとって、単なる編年体の事件列挙はいまだ「述べる」の中にはいらぬものだったし、また、後世人の事実そのものを知ることを妨げるような、あまりにも道義的な断案は、むしろ「作る」の部類にはいるように思われた。
 漢が天下を定めてからすでに五代・百年、始皇帝(しこうてい)の反文化政策によって湮滅(いんめつ)しあるいは隠匿(いんとく)されていた書物がようやく世に行なわれはじめ、文[#「文」に白丸傍点]の(おこ)らんとする気運が鬱勃(うつぼつ)として感じられた。漢の朝廷ばかりでなく、時代が、史[#「史」に白丸傍点]の出現を要求しているときであった。司馬遷(しばせん)個人としては、父の遺嘱(いしょく)による感激が学殖・観察眼・筆力の充実を伴ってようやく渾然(こんぜん)たるものを生み出すべく醗酵(はっこう)しかけてきていた。彼の仕事は実に気持よく進んだ。むしろ快調に行きすぎて困るくらいであった。というのは、初めの五帝本紀(ごていほんぎ)から夏殷周秦(かいんしゅうしん)本紀あたりまでは、彼も、材料を按排(あんばい)して記述の正確厳密を期する一人の技師に過ぎなかったのだが、始皇帝を経て、項羽(こうう)本紀にはいるころから、その技術家の冷静さが怪しくなってきた。ともすれば、項羽が彼に、あるいは彼が項羽にのり移りかねないのである。
 項王(すなわ)チ夜起キテ帳中ニ飲ス。美人有リ。名ハ()。常ニ幸セラレテ従フ。駿馬(しゅんめ)名ハ(すい)、常ニ(これ)ニ騎ス。(ここ)(おい)テ項王(すなわ)チ悲歌慷慨(こうがい)シ自ラ詩ヲ(つく)リテ(いわ)ク「力山ヲ抜キ気世ヲ(おお)フ、時利アラズ騅()カズ、騅逝カズ奈何(いかん)スベキ、虞ヤ虞ヤ(なんじ)奈何(いか)ニセン」ト。歌フコト数|※[#「門<癸」、第3水準1-93-53(けつ)、美人之ニ和ス。項王(なみだ)数行下ル。左右皆泣キ、()ク仰ギ()ルモノ()シ……。
 これでいいのか? と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいものだろうか? 彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかしなんと生気溌剌(はつらつ)たる述べ方であったか? 異常な想像的視覚を()った者でなければとうてい不能な記述であった。彼は、ときに「作ル」ことを恐れるのあまり、すでに書いた部分を読返してみて、それあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸を()める。これで、「作ル」ことになる心配はないわけである。しかし、(と司馬遷が思うに)これでは項羽(こうう)が項羽でなくなるではないか。項羽も始皇帝(しこうてい)()荘王(そうおう)もみな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」だ? 「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句をふたたび生かさないわけにはいかない。元どおりに直して、さて一読してみて、彼はやっと落ちつく。いや、彼ばかりではない。そこにかかれた史上の人物が、項羽や樊※[#「口+會」、第3水準1-15-25(はんかい)范増(はんぞう)が、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。
 調子のよいときの武帝(ぶてい)(まこと)高邁闊達(こうまいかったつ)な・理解ある文教の保護者だったし、太史令(たいしれい)という職が地味な特殊な技能を要するものだったために、官界につきものの朋党比周(ほうとうひしゅう)擠陥讒誣(せいかんざんぶ)による地位(あるいは生命)の不安定からも免れることができた。
 数年の間、司馬遷は充実した・幸福といっていい日々を送った。(当時の人間の考える幸福とは、現代人のそれと、ひどく内容の違うものだったが、それを求めることに変わりはない。)妥協性はなかったが、どこまでも陽性で、よく論じよく怒りよく笑いなかんずく論敵を完膚(かんぷ)なきまでに説破することを最も得意としていた。
 さて、そうした数年ののち、突然、この(わざわい)(くだ)ったのである。

 薄暗い蚕室(さんしつ)の中で――腐刑(ふけい)施術後当分の間は風に当たることを避けねばならぬので、中に火を(おこ)して暖かに保った・密閉した暗室を作り、そこに施術後の受刑者を数日の間入れて、身体を養わせる。暖かく暗いところが蚕を飼う部屋に似ているとて、それを蚕室と名づけるのである。――言語を絶した混乱のあまり彼は茫然(ぼうぜん)と壁によりかかった。憤激よりも先に、驚きのようなものさえ感じていた。(ざん)()うこと、死を(たま)うことに対してなら、彼にはもとより平生から覚悟ができている。刑死(けいし)する(おのれ)の姿なら想像してみることもできるし、武帝の気に逆らって李陵(りりょう)()め上げたときもまかりまちがえば死を賜うようなことになるかもしれぬくらいの懸念(けねん)は自分にもあったのである。ところが、刑罰も数ある中で、よりによって最も醜陋(しゅうろう)宮刑(きゅうけい)にあおうとは! 迂闊(うかつ)といえば迂闊だが、(というのは、死刑を予期するくらいなら当然、他のあらゆる刑罰も予期しなければならないわけだから)彼は自分の運命の中に、不測の死が待受けているかもしれぬとは考えていたけれども、このような醜いものが突然現われようとは、全然、頭から考えもしなかったのである。常々、彼は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起こらないのだという一種の確信のようなものを()っていた。これは長い間史実を扱っているうちに自然に養われた考えであった。同じ逆境にしても、慷慨(こうがい)の士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の()には緩慢なじめじめした醜い苦しみが、というふうにである。たとえ始めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処のし方によってその運命はその人間にふさわしいことが(わか)ってくるのだと。司馬遷(しばせん)は自分を男[#「男」に傍点]だと信じていた。文筆の()ではあっても当代のいかなる武人(ぶじん)よりも男であることを確信していた。自分でばかりではない。このことだけは、いかに彼に好意を寄せぬ者でも認めないわけにはいかないようであった。それゆえ、彼は自らの持論に従って、車裂(くるまざき)の刑なら自分の行く手に思い(えが)くことができたのである。それが(よわい)五十に近い身で、この(はずか)しめにあおうとは! 彼は、今自分が蚕室(さんしつ)の中にいるということが夢のような気がした。夢だと思いたかった。しかし、壁によって閉じていた目を開くと、うす暗い中に、生気のない・魂までが抜けたような顔をした男が三、四人、だらしなく横たわったりすわったりしているのが目にはいった。あの姿が、つまり今の己なのだと思ったとき、嗚咽(おえつ)とも怒号(どごう)ともつかない叫びが彼の咽喉(のど)を破った。
 痛憤と煩悶(はんもん)との数日のうちには、ときに、学者としての彼の習慣からくる思索が――反省が来た。いったい、今度の出来事の中で、何が――誰が――誰のどういうところが、悪かったのだという考えである。日本の君臣道とは根柢(こんてい)から異なった()の国のこととて、当然、彼はまず、武帝を(うら)んだ。一時はその怨懣(えんまん)だけで、いっさい他を顧みる余裕はなかったというのが実際であった。しかし、しばらくの狂乱の時期の過ぎたあとには、歴史家としての彼が、目覚めてきた。儒者(じゅしゃ)と違って、先王の価値にも歴史家的な割引をすることを知っていた彼は、後王たる武帝の評価の上にも、私怨(しえん)のために狂いを来たさせることはなかった。なんといっても武帝は大君主である。そのあらゆる欠点にもかかわらず、この君がある限り、漢の天下は微動だもしない。高祖はしばらく()くとするも、仁君(じんくん)文帝(ぶんてい)も名君景帝(けいてい)も、この君に比べれば、やはり小さい。ただ大きいものは、その欠点までが大きく写ってくるのは、これはやむを得ない。司馬遷(しばせん)は極度の憤怨(ふんえん)のうちにあってもこのことを忘れてはいない。今度のことは要するに天の()せる疾風暴雨霹靂(へきれき)に見舞われたものと思うほかはないという考えが、彼をいっそう絶望的な(いきどお)りへと()ったが、また一方、逆に諦観(ていかん)へも向かわせようとする。怨恨(えんこん)が長く君主に向かい得ないとなると、勢い、君側の姦臣(かんしん)に向けられる。彼らが悪い。たしかにそうだ。しかし、この悪さは、すこぶる副次的[#「副次的」に傍点]な悪さである。それに、自矜心(じきょうしん)の高い彼にとって、彼ら小人輩(しょうじんはい)は、怨恨の対象としてさえ物足りない気がする。彼は、今度ほど好人物[#「好人物」に傍点]というものへの腹立ちを感じたことはない。これは姦臣(かんしん)酷吏(こくり)よりも始末が悪い。少なくとも(かたわら)から見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、いっそう()しからぬのだ。弁護もしなければ反駁(はんばく)もせぬ。心中、反省もなければ自責もない。丞相(じょうしょう)公孫賀(こうそんが)のごとき、その代表的なものだ。同じ阿諛(あゆ)迎合(げいごう)を事としても、杜周(としゅう)(最近この男は前任者王卿(おうけい)を陥れてまんまと御史大夫(ぎょしたいふ)となりおおせた)のような(やつ)は自らそれと知っているに違いないがこのお人好しの丞相ときた日には、その自覚さえない。自分に全躯保妻子(くをまっとうしさいしをたもつ)の臣といわれても、こういう手合いは、腹も立てないのだろう。こんな手合いは恨みを向けるだけの値打ちさえもない。
 司馬遷は最後に忿懣(ふんまん)の持って行きどころを自分に求めようとする。実際、何ものかに対して腹を立てなければならぬとすれば、結局それは自分自身に対してのほかはなかったのである。だが、自分のどこが悪かったのか? 李陵(りりょう)のために弁じたこと、これはいかに考えてみてもまちがっていたとは思えない。方法的にも格別(まず)かったとは考えぬ。阿諛(あゆ)()するに甘んじないかぎり、あれはあれでどうしようもない。それでは、自ら顧みてやましくなければ、そのやましくない行為が、どのような結果を来たそうとも、士たる者はそれを甘受(かんじゅ)しなければならないはずだ。なるほどそれは一応そうに違いない。だから自分も肢解(しかい)されようと腰斬(ようざん)にあおうと、そういうものなら甘んじて受けるつもりなのだ。しかし、この宮刑(きゅうけい)は――その結果かく成り果てたわが身の有様というものは、――これはまた別だ。同じ不具でも足を切られたり鼻を切られたりするのとは全然違った種類のものだ。士たる者の加えられるべき刑ではない。こればかりは、身体のこういう状態というものは、どういう角度から見ても、完全な悪だ。飾言(しょくげん)の余地はない。そうして、心の傷だけならば時とともに()えることもあろうが、(おの)が身体のこの醜悪な現実は死に至るまでつづくのだ。動機がどうあろうと、このような結果を招くものは、結局「悪かった」といわなければならぬ。しかし、どこが悪かった? (おのれ)のどこが? どこも悪くなかった。己は正しいことしかしなかった。()いていえば、ただ、「我あり」という事実だけが悪かったのである。
 茫然(ぼうぜん)とした虚脱(きょだつ)の状態ですわっていたかと思うと、突然飛上り、傷ついた獣のごとくうめきながら暗く暖かい室の中を歩き(まわ)る。そうしたしぐさを無意識に繰返しつつ、彼の考えもまた、いつも同じ所をぐるぐる廻ってばかりいて帰結するところを知らないのである。
 我を忘れ壁に頭を打ちつけて血を流したその数回を除けば、彼は自らを殺そうと試みなかった。死にたかった。死ねたらどんなによかろう。それよりも数等恐ろしい恥辱が追立てるのだから死をおそれる気持は全然なかった。なぜ死ねなかったのか? 獄舎の中に、自らを殺すべき道具のなかったことにもよろう。しかし、それ以外に何かが内から彼をとめる。はじめ、彼はそれがなんであるかに気づかなかった。ただ狂乱と憤懣(ふんまん)との中で、たえず発作(ほっさ)的に死への誘惑を感じたにもかかわらず、一方彼の気持を自殺のほうへ向けさせたがらないものがあるのを漠然(ばくぜん)と感じていた。何を忘れたのかはハッキリしないながら、とにかく何か忘れものをしたような気のすることがある。ちょうどそんなぐあいであった。
 許されて自宅に帰り、そこで謹慎(きんしん)するようになってから、はじめて、彼は、自分がこの(ひと)月狂乱にとり(まぎ)れて(おの)畢生(ひっせい)の事業たる修史(しゅうし)のことを忘れ果てていたこと、しかし、表面は忘れていたにもかかわらず、その仕事への無意識の関心が彼を自殺から(はば)む役目を隠々(いんいん)のうちにつとめていたことに気がついた。
 十年前臨終(りんじゅう)(とこ)で自分の手をとり泣いて遺命(いめい)した父の惻々(そくそく)たる言葉は、今なお耳底(じてい)にある。しかし、今疾痛(しっつう)惨怛(さんたん)(きわ)めた彼の心の中に()ってなお修史の仕事を思い絶たしめないものは、その父の言葉ばかりではなかった。それは何よりも、その仕事そのものであった。仕事の魅力とか仕事への情熱とかいう(たの)しい[#「しい」に傍点]態(てい)のものではない。修史という使命の自覚には違いないとしてもさらに昂然(こうぜん)として自らを()する自覚ではない。恐ろしく()の強い男だったが、今度のことで、(おのれ)のいかにとるに足らぬものだったかをしみじみと考えさせられた。理想の抱負のと威張(いば)ってみたところで、所詮(しょせん)己は牛にふみつぶされる道傍(みちばた)の虫けらのごときものにすぎなかったのだ。「我[#「我」に傍点]」はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑えなかった。このような浅ましい身と成り果て、自信も自恃(じじ)も失いつくしたのち、それでもなお世にながらえてこの仕事に従うということは、どう考えても(たの)しいわけはなかった。それはほとんど、いかにいとわしくとも最後までその関係を絶つことの許されない人間同士のような宿命的な因縁(いんねん)に近いものと、彼自身には感じられた。とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことができぬのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事との(つな)がりによってである)ということだけはハッキリしてきた。
 当座の盲目的な獣の(うめ)き苦しみに代わって、より[#「より」に傍点]意識的な・人間[#「人間」に傍点]の苦しみが始まった。困ったことに、自殺できないことが明らかになるにつれ、自殺によってのほかに苦悩と恥辱とから逃れる(みち)のないことがますます明らかになってきた。一個の丈夫(じょうふ)たる太史令(たいしれい)司馬遷(しばせん)天漢(てんかん)三年の春に死んだ。そして、そののちに、彼の書残した史をつづける者は、知覚も意識もない一つの書写機械にすぎぬ、――自らそう思い込む以外に(みち)はなかった。無理でも、彼はそう思おうとした。修史の仕事は必ず続けられねばならぬ。これは彼にとって絶対であった。修史の仕事のつづけられるためには、いかにたえがたくとも生きながらえねばならぬ。生きながらえるためには、どうしても、完全に身を()きものと思い込む必要があったのである。
 (いつ)月ののち、司馬遷はふたたび筆を()った。(よろこ)びも昂奮(こうふん)もない・ただ仕事の完成への意志だけに鞭打(むちう)たれて、傷ついた脚を引摺(ひきず)りながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと稿を継いでいく。もはや太史令の役は免ぜられていた。(いささ)か後悔した武帝が、しばらく後に彼を中書令(ちゅうしょれい)に取立てたが、官職の黜陟(ちゅっちょく)のごときは、彼にとってもうなんの意味もない。以前の論客司馬遷は、一切口を開かずなった。笑うことも怒ることもない。しかし、けっして悄然(しょうぜん)たる姿ではなかった。むしろ、何か悪霊(あくりょう)にでも取り()かれているようなすさまじさ[#「すさまじさ」に傍点]を、人々は緘黙(かんもく)せる彼の風貌(ふうぼう)の中に見て取った。夜眠る時間をも惜しんで彼は仕事をつづけた。一刻も早く仕事を完成し、そのうえで早く自殺の自由を得たいとあせっているもののように、家人らには思われた。
 凄惨(せいさん)な努力を一年ばかり続けたのち、ようやく、生きることの(よろこ)びを失いつくしたのちもなお表現することの歓びだけは生残りうるものだということを、彼は発見した。しかし、そのころになってもまだ、彼の完全な沈黙は破られなかったし、風貌(ふうぼう)の中のすさまじさも全然(やわ)らげられはしない。稿をつづけていくうちに、宦者(かんじゃ)とか閹奴(えんど)とかいう文字を書かなければならぬところに来ると、彼は覚えず(うめ)き声を発した。独り居室にいるときでも、夜、牀上(しょうじょう)に横になったときでも、ふとこの屈辱の思いが(きざ)してくると、たちまちカーッと、焼鏝(やきごて)をあてられるような熱い(うず)くものが全身を()けめぐる。彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ四辺(あたり)を歩きまわり、さてしばらくしてから歯をくいしばって(おのれ)を落ちつけようと努めるのである。


 乱軍の中に気を失った李陵(りりょう)獣脂(じゅうし)(とも)獣糞(じゅうふん)()いた単于(ぜんう)帳房(ちょうぼう)の中で目を覚ましたとき、咄嗟(とっさ)に彼は心を決めた。(みずか)ら首()ねて(はずか)しめを免れるか、それとも今一応は敵に従っておいてそのうちに機を見て脱走する――敗軍の責を(つぐな)うに足る手柄を土産(みやげ)として――か、この二つのほかに(みち)はないのだが、李陵は、後者を選ぶことに心を決めたのである。
 単于(ぜんう)は手ずから李陵の(なわ)を解いた。その後の待遇も鄭重(ていちょう)を極めた。且※[#「革+是」、第3水準1-93-79]侯(そていこう)単于とて先代の※[#「口+句」、第3水準1-14-90]犁湖(くりこ)単于の弟だが、骨骼(こっかく)(たくま)しい巨眼(きょがん)赭髯(しゃぜん)の中年の偉丈夫(いじょうふ)である。数代の単于に従って(かん)と戦ってはきたが、まだ李陵ほどの手強(てごわ)い敵に()ったことはないと正直に語り、陵の祖父李広(りこう)の名を引合いに出して陵の善戦を()めた。(とら)格殺(かくさつ)したり岩に矢を立てたりした飛将軍(ひしょうぐん)李広の驍名(ぎょうめい)は今もなお胡地(こち)にまで語り伝えられている。陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫でありまた彼自身も強かったからである。食を()けるときも強壮者が美味をとり老弱者に余り物を与えるのが匈奴(きょうど)のふうであった。ここでは、強き者が(はずか)しめられることはけっしてない。降将李陵は一つの穹盧(きゅうろ)と数十人の侍者(じしゃ)とを与えられ賓客(ひんきゃく)の礼をもって(ぐう)せられた。
 李陵にとって奇異な生活が始まった。家は絨帳(じゅうちょう)穹盧(きゅうろ)、食物は羶肉(せんにく)、飲物は酪漿(らくしょう)と獣乳と乳醋酒(にゅうさくしゅ)。着物は(おおかみ)や羊や(くま)の皮を(つづ)り合わせた旃裘(せんきゅう)。牧畜と狩猟と寇掠(こうりゃく)と、このほかに彼らの生活はない。一望際涯(いちぼうさいがい)のない高原にも、しかし、河や湖や山々による境界があって、単于(ぜんう)直轄地(ちょっかつち)のほかは左賢王(さけんおう)右賢王左谷蠡王(さろくりおう)右谷蠡王以下の諸王侯の領地に分けられており、牧民の移住はおのおのその境界の中に限られているのである。城郭もなければ田畑もない国。村落はあっても、それが季節に従い水草を()って土地を変える。
 李陵には土地は与えられない。単于麾下(きか)の諸将とともにいつも単于に従っていた。(すき)があったら単于の首でも、と李陵は(ねら)っていたが、容易に機会が来ない。たとい、単于を討果たしたとしても、その首を持って脱出することは、非常な機会に恵まれないかぎり、まず不可能であった。胡地(こち)にあって単于と刺違えたのでは、匈奴(きょうど)(おのれ)の不名誉を有耶無耶(うやむや)のうちに葬ってしまうこと必定(ひつじょう)ゆえ、おそらく漢に聞こえることはあるまい。李陵は辛抱強(しんぼうづよ)く、その不可能とも思われる機会の到来を待った。
 単于(ぜんう)幕下(ばっか)には、李陵(りりょう)のほかにも漢の降人(こうじん)が幾人かいた。その中の一人、衛律(えいりつ)という男は軍人ではなかったが、丁霊王(ていれいおう)の位を(もら)って最も重く単于に用いられている。その父は胡人(こじん)だが、(ゆえ)あって衛律は漢の都で生まれ成長した。武帝に仕えていたのだが、先年協律都尉(きょうりつとい)李延年(りえんねん)の事に()するのを(おそ)れて、()げて匈奴(きょうど)()したのである。血が血だけに胡風(こふう)になじむことも速く、相当の才物でもあり、常に且※[#「革+是」、第3水準1-93-79]侯(そていこう)単于(ぜんう)帷幄(いあく)に参じてすべての画策に(あず)かっていた。李陵はこの衛律を始め、漢人(かんじん)(くだ)って匈奴の中にあるものと、ほとんど口をきかなかった。彼の頭の中にある計画について事をともにすべき人物がいないと思われたのである。そういえば、他の漢人同士の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることがないようであった。
 一度単于は李陵を呼んで軍略上の示教を()うたことがある。それは東胡(とうこ)に対しての戦いだったので、陵は快く(おの)が意見を述べた。次に単于が同じような相談を持ちかけたとき、それは漢軍に対する策戦についてであった。李陵はハッキリと(いや)な表情をしたまま口を開こうとしなかった。単于も()いて返答を求めようとしなかった。それからだいぶ久しくたったころ、代・上郡を寇掠(こうりゃく)する軍隊の一将として南行することを求められた。このときは、漢に対する戦いには出られない旨を言ってキッパリ断わった。爾後(じご)、単于は陵にふたたびこうした要求をしなくなった。待遇は依然として変わらない。他に利用する目的はなく、ただ士を遇するために士を遇しているのだとしか思われない。とにかくこの単于は男[#「男」に傍点]だと李陵は感じた。
 単于の長子・左賢王(さけんおう)が妙に李陵に好意を示しはじめた。好意というより尊敬といったほうが近い。二十歳を越したばかりの・粗野(そや)ではあるが勇気のある真面目(まじめ)な青年である。強き者への讃美(さんび)が、実に純粋で強烈なのだ。初め李陵のところへ来て騎射(きしゃ)を教えてくれという。騎射といっても騎のほうは陵に劣らぬほど(うま)い。ことに、裸馬(らば)を駆る技術に至っては(はる)かに陵を(しの)いでいるので、李陵はただ(しゃ)だけを教えることにした。左賢王(さけんおう)は、熱心な弟子となった。陵の祖父李広(りこう)の射における入神(にゅうしん)の技などを語るとき、蕃族(ばんぞく)の青年は(ひとみ)をかがやかせて熱心に聞入るのである。よく二人して狩猟に出かけた。ほんの(わず)かの供廻(ともまわ)りを連れただけで二人は縦横に曠野(こうや)疾駆(しっく)しては(きつね)(おおかみ)羚羊(かもしか)や※[#「周+鳥」、第3水準1-94-62(おおとり)雉子(きじ)などを射た。あるときなど夕暮れ近くなって矢も尽きかけた二人が――二人の馬は供の者を(はる)かに駈抜(かけぬ)いていたので――一群の狼に囲まれたことがある。馬に(むち)うち全速力で狼群の中を駈け抜けて逃れたが、そのとき、李陵の馬の(しり)に飛びかかった一匹を、後ろに駈けていた青年左賢王が彎刀(わんとう)をもって見事(みごと)胴斬(どうぎ)りにした。あとで調べると二人の馬は狼どもに()み裂かれて血だらけになっていた。そういう一日ののち、夜、天幕(てんまく)の中で今日の獲物を(あつもの)の中にぶちこんでフウフウ吹きながら(すす)るとき、李陵は火影(ほかげ)に顔を火照(ほて)らせた若い蕃王(ばんおう)の息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった。

 天漢三年の秋に匈奴(きょうど)がまたもや雁門(がんもん)を犯した。これに(むく)いるとて、翌四年、漢は弐師(じし)将軍李広利(りこうり)に騎六万歩七万の大軍を(さず)けて朔方(さくほう)を出でしめ、歩卒一万を率いた強弩都尉(きょうどとい)路博徳(ろはくとく)にこれを(たす)けしめた。ひいて因※[#「木+于」、39-13(いんう)将軍公孫敖(こうそんごう)は騎一万歩三万をもって雁門を、游撃(ゆうげき)将軍韓説(かんせつ)は歩三万をもって五原(ごげん)を、それぞれ進発する。近来にない大北伐(ほくばつ)である。単于(ぜんう)はこの報に接するや、ただちに婦女、老幼、畜群、資財の類をことごとく余吾水(しょごすい)(ケルレン河)北方の地に移し、(みずか)ら十万の精騎を率いて李広利(りこうり)・路博徳(ろはくとく)の軍を水南(すいなん)の大草原に(むか)え撃った。連戦十余日。漢軍はついに退くのやむなきに至った。李陵(りりょう)に師事する若き左賢王(さけんおう)は、別に一隊を率いて東方に向かい因※[#「木+于」、39-18(いんう)将軍を迎えてさんざんにこれを破った。漢軍の左翼たる韓説(かんせつ)の軍もまた得るところなくして兵を引いた。北征は完全な失敗である。李陵は例によって漢との戦いには陣頭に現われず、水北に退いていたが、左賢王の戦績をひそかに気遣(きづか)っている(おのれ)を発見して愕然(がくぜん)とした。もちろん、全体としては漢軍の成功と匈奴(きょうど)の敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。
 その左賢王に打破られた公孫敖(こうそんごう)が都に帰り、士卒を多く失って功がなかったとの(かど)(ろう)(つな)がれたとき、妙な弁解をした。敵の捕虜(ほりょ)が、匈奴軍の強いのは、漢から(くだ)った()将軍が常々兵を練り軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。だからといって自軍が()けたことの弁解にはならないから、もちろん、因※[#「木+于」、40-8(いんう)将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対し激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたび(ごく)に収められ、今度は、陵の老母から妻・子・弟に至るまでことごとく殺された。軽薄なる世人の常とて、当時隴西(ろうせい)(李陵の家は隴西の出である)の士大夫(したいふ)ら皆李家を出したことを恥としたと記されている。
 この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境から拉致(らち)された一漢卒(かんそつ)の口からである。それを聞いたとき、李陵は立上がってその男の胸倉(むなぐら)をつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめた。たしかにまちがいのないことを知ると、彼は歯をくい(しば)り、思わず力を両手にこめた。男は身をもがいて、苦悶(くもん)(うめ)きを()らした。(りょう)の手が無意識のうちにその男の咽喉(いんこう)(やく)していたのである。陵が手を離すと、男はバッタリ地に倒れた。その姿に目もやらず、陵は帳房(ちょうぼう)の外へ飛出した。
 めちゃくちゃに彼は野を歩いた。激しい憤りが頭の中で(うず)を巻いた。老母や幼児のことを考えると心は()けるようであったが、涙は一滴も出ない。あまりに強い怒りは涙を涸渇(こかつ)させてしまうのであろう。
 今度の場合には限らぬ。今まで我が一家はそもそも漢から、どのような扱いを受けてきたか? 彼は祖父の李広(りこう)最期(さいご)を思った。(陵の父、当戸(とうこ)は、彼が生まれる数か月前に死んだ。陵はいわゆる、遺腹の児である。だから、少年時代までの彼を教育し鍛えあげたのは、有名なこの祖父であった。)名将李広は数次の北征に大功を()てながら、君側の姦佞(かんねい)に妨げられて何一つ恩賞にあずからなかった。部下の諸将がつぎつぎに爵位(しゃくい)封侯(ほうこう)を得て行くのに、廉潔(れんけつ)な将軍だけは封侯はおろか、終始変わらぬ清貧(せいひん)に甘んじなければならなかった。最後に彼は大将軍衛青(えいせい)と衝突した。さすがに衛青にはこの老将をいたわる気持はあったのだが、その幕下(ばっか)の一軍吏(ぐんり)(とら)()を借りて李広を(はずか)しめた。憤激した老名将はすぐその場で――陣営の中で(みずか)ら首()ねたのである。祖父の死を聞いて声をあげてないた少年の日の自分を、陵はいまだにハッキリと(おぼ)えている。……
 陵の叔父(李広の次男)李敢(りかん)の最後はどうか。彼は父将軍の(みじ)めな死について衛青を(うら)み、自ら大将軍の邸に(おもむ)いてこれを(はずか)しめた。大将軍の(おい)にあたる嫖騎(ひょうき)将軍霍去病(かくきょへい)がそれを憤って、甘泉宮(かんせんきゅう)の猟のときに李敢を射殺した。武帝はそれを知りながら、嫖騎将軍をかばわんがために、李敢は鹿(しか)の角に触れて死んだと発表させたのだ。……。
 司馬遷(しばせん)の場合と違って、李陵のほうは簡単であった。憤怒(ふんぬ)がすべてであった。(無理でも、もう少し早くかねての計画――単于(ぜんう)の首でも持って胡地(こち)を脱するという――を実行すればよかったという悔いを除いては、)ただそれをいかにして現わすかが問題であるにすぎない。彼は先刻の男の言葉「胡地(こち)にあって李将軍が兵を教え漢に備えていると聞いて陛下が激怒され云々(うんぬん)」を思出した。ようやく思い当たったのである。もちろん彼自身にはそんな覚えはないが、同じ漢の降将に李緒(りしょ)という者がある。元、塞外都尉(さいがいとい)として奚侯城(けいこうじょう)を守っていた男だが、これが匈奴(きょうど)(くだ)ってから常に胡軍(こぐん)に軍略を授け兵を練っている。現に半年前の軍にも、単于に従って、(問題の公孫敖(こうそんごう)の軍とではないが)漢軍と戦っている。これだと李陵(りりょう)は思った。同じ()将軍で、李緒(りしょ)とまちがえられたに違いないのである。
 その晩、彼は単身、李緒の帳幕(ちょうばく)へと(おもむ)いた。一言も言わぬ、一言も言わせぬ。ただの一刺しで李緒は(たお)れた。
 翌朝李陵は単于の前に出て事情を打明けた。心配は()らぬと単于は言う。だが母の大閼(たいえん)氏が少々うるさいから――というのは、相当の老齢でありながら、単于の母は李緒と醜関係があったらしい。単于はそれを承知していたのである。匈奴(きょうど)の風習によれば、父が死ぬと、長子たる者が、亡父の妻妾(さいしょう)のすべてをそのまま引きついで(おの)が妻妾とするのだが、さすがに生母だけはこの中にはいらない。生みの母に対する尊敬だけは極端に男尊女卑の彼らでも()っているのである――今しばらく北方へ隠れていてもらいたい、ほとぼり[#「ほとぼり」に傍点]がさめたころに迎えを()るから、とつけ加えた。その言葉に従って、李陵は一時従者どもをつれ、西北の兜銜山(とうかんざん)額林達班嶺(がくりんたっぱんれい))の(ふもと)に身を避けた。
 まもなく問題の大閼(たいえん)氏が病死し、単于(ぜんう)(てい)に呼戻されたとき、李陵(りりょう)は人間が変わったように見えた。というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対に(あずか)らなかった彼が、(みずか)ら進んでその相談に乗ろうと言出したからである。単于はこの変化を見て大いに喜んだ。彼は陵を右校王(うこうおう)に任じ、(おの)が娘の一人をめあわせた。娘を妻にという話は以前にもあったのだが、今まで断わりつづけてきた。それを今度は躊躇(ちゅうちょ)なく妻としたのである。ちょうど酒泉(しゅせん)張掖(ちょうえき)の辺を寇掠(こうりゃく)すべく南に出て行く一軍があり、陵は自ら請うてその軍に従った。しかし、西南へと取った進路がたまたま浚稽山(しゅんけいざん)(ふもと)(よぎ)ったとき、さすがに陵の心は曇った。かつてこの地で(おのれ)に従って死戦した部下どものことを考え、彼らの骨が埋められ彼らの血の()み込んだその砂の上を歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼はもはや南行して漢兵と闘う勇気を失った。病と称して彼は独り北方へ馬を返した。

 翌、太始(たいし)元年、且※[#「革+是」、第3水準1-93-79]侯(そていこう)単于(ぜんう)が死んで、陵と親しかった左賢王(さけんおう)が後を()いだ。狐鹿姑(ころくこ)単于というのがこれである。
 匈奴(きょうど)右校王(うこうおう)たる李陵(りりょう)の心はいまだにハッキリしない。母妻子を族滅(ぞくめつ)された(うら)みは骨髄(こつずい)に徹しているものの、(みずか)ら兵を率いて漢と戦うことができないのは、先ごろの経験で明らかである。ふたたび漢の地を踏むまいとは誓ったが、この匈奴の俗に化して終生安んじていられるかどうかは、新単于への友情をもってしても、まださすがに自信がない。考えることの(きら)いな彼は、イライラしてくると、いつも独り駿馬(しゅんめ)を駆って曠野(こうや)に飛び出す。秋天一碧(しゅうてんいっぺき)の下、※[#「口+戛」、第3水準1-15-17]々(かつかつ)(ひづめ)の音を響かせて草原となく丘陵となく狂気のように馬を駆けさせる。何十里かぶっとばした後、馬も人もようやく疲れてくると、高原の中の小川を求めてその(ほとり)に下り、馬に(みず)かう。それから(おのれ)は草の上に仰向(あおむ)けにねころんで快い疲労感にウットリと見上げる碧落(へきらく)(きよ)さ、高さ、広さ。ああ我もと天地間の一粒子(いちりゅうし)のみ、なんぞまた漢と()とあらんやとふとそんな気のすることもある。一しきり休むとまた馬に(また)がり、がむしゃらに()け出す。終日乗り疲れ黄雲(こううん)落暉(らっき)に※[#「日+熏」、第3水準1-85-42(くん)ずるころになってようやく彼は幕営(ばくえい)に戻る。疲労だけが彼のただ一つの救いなのである。
 司馬遷(しばせん)(りょう)のために弁じて罪をえたことを伝える者があった。李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。司馬遷とは互いに顔は知っているし挨拶(あいさつ)をしたことはあっても、特に交を結んだというほどの間柄ではなかった。むしろ、(いや)に議論ばかりしてうるさいやつだくらいにしか感じていなかったのである。それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、あまりに自分一個の苦しみと(たたか)うのに懸命であった。よけいな世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である。

 初め一概に野卑(やひ)滑稽(こっけい)としか(うつ)らなかった胡地(こち)の風俗が、しかし、その地の実際の風土・気候等を背景として考えてみるとけっして野卑でも不合理でもないことが、しだいに李陵にのみこめてきた。厚い皮革製の胡服(こふく)でなければ朔北(さくほく)の冬は(しの)げないし、肉食でなければ胡地の寒冷に()えるだけの精力を(たくわ)えることができない。固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級と(けな)し去るのは当たらない。漢人のふうをあくまで(たも)とうとするなら、胡地の自然の中での生活は一日といえども続けられないのである。
 かつて先代の且※[#「革+是」、第3水準1-93-79]侯(そていこう)単于(ぜんう)の言った言葉を李陵(りりょう)(おぼ)えている。漢の人間が二言めには、(おの)が国を礼儀の国といい、匈奴(きょうど)の行ないをもって禽獣(きんじゅう)に近いと看做(みな)すことを難じて、単于は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の(いい)ではないか。利を好み人を(ねた)むこと、漢人と胡人(こじん)といずれかはなはだしき? 色に(ふけ)り財を(むさぼ)ること、またいずれかはなはだしき? (うわ)べを()ぎ去れば畢竟(ひっきょう)なんらの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。漢初以来の骨肉(こつにく)(あい)()む内乱や功臣連の排斥(はいせき)擠陥(せいかん)の跡を例に引いてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉に窮した。実際、武人(ぶじん)たる彼は今までにも、煩瑣(はんさ)な礼のための礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったからである。たしかに、胡俗(こぞく)粗野(そや)な正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さより(はる)かに好ましい場合がしばしばあると思った。諸夏(しょか)の俗を正しきもの、胡俗(こぞく)を卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵にはそんな気がしてくる。たとえば今まで人間には名のほかに(あざな)がなければならぬものと、ゆえもなく信じ切っていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。
 彼の妻はすこぶる大人(おとな)しい女だった。いまだに主人の前に出るとおずおずしてろく[#「ろく」に傍点]に口も()けない。しかし、彼らの間にできた男の児は、少しも父親を恐れないで、ヨチヨチと李陵の(ひざ)匍上(はいあ)がって来る。その児の顔に見入りながら、数年前長安(ちょうあん)に残してきた――そして結局母や祖母とともに殺されてしまった――子供の(おもかげ)をふと思いうかべて李陵は我しらず憮然(ぶぜん)とするのであった。

 陵が匈奴(きょうど)(くだ)るよりも早く、ちょうどその一年前から、漢の中郎将(ちゅうろうしょう)蘇武(そぶ)胡地(こち)に引留められていた。
 元来蘇武は平和の使節として捕虜(ほりょ)交換のために(つか)わされたのである。ところが、その副使某がたまたま匈奴の内紛(ないふん)に関係したために、使節団全員が(とら)えられることになってしまった。単于(ぜんう)は彼らを殺そうとはしないで、死をもって(おびや)かしてこれを(くだ)らしめた。ただ蘇武一人は降服を(がえ)んじないばかりか、(はずか)しめを避けようと(みずか)ら剣を取って(おの)が胸を貫いた。昏倒(こんとう)した蘇武に対する胡※[#「醫」の「酉」に代えて「巫」、第4水準2-78-8(こい)の手当てというのがすこぶる変わっていた。地を掘って(あな)をつくり※[#「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59]火(うんか)を入れて、その上に傷者を寝かせその背中を()んで血を出させたと漢書(かんじょ)には(しる)されている。この荒療治のおかげで、不幸にも蘇武は半日昏絶(こんぜつ)したのちにまた息を吹返した。且※[#「革+是」、第3水準1-93-79]侯(そていこう)単于はすっかり彼に()れ込んだ。数旬ののちようやく蘇武の身体が恢復(かいふく)すると、例の近臣衛律(えいりつ)をやってまた熱心に降をすすめさせた。衛律は蘇武が鉄火の罵詈(ばり)()い、すっかり恥をかいて手を引いた。その後蘇武が(あなぐら)の中に幽閉(ゆうへい)されたとき旃毛(せんもう)を雪に和して(くら)いもって飢えを(しの)いだ話や、ついに北海(ほっかい)(バイカル湖)のほとり人なき所に(うつ)されて牡羊(おひつじ)が乳を出さば帰るを許さんと言われた話は、持節(じせつ)十九年の彼の名とともに、あまりにも有名だから、ここには述べない。とにかく、李陵(りりょう)悶々(もんもん)の余生を胡地(こち)に埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである。
 李陵(りりょう)にとって蘇武(そぶ)は二十年来の友であった。かつて時を同じゅうして侍中(じちゅう)を勤めていたこともある。片意地でさばけないところはあるにせよ、確かにまれに見る硬骨の士であることは疑いないと陵は思っていた。天漢元年に蘇武が北へ立ってからまもなく、武の老母が病死したときも、陵は陽陵(ようりょう)までその葬を送った。蘇武の妻が良人(おっと)のふたたび帰る見込みなしと知って、去って他家に()した(うわさ)を聞いたのは、陵の北征出発直前のことであった。そのとき、陵は友のためにその妻の浮薄をいたく憤った。
 しかし、はからずも自分が匈奴(きょうど)(くだ)るようになってからのちは、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。武が(はる)か北方に(うつ)されていて顔を合わせずに済むことをむしろ助かったと感じていた。ことに、(おのれ)の家族が(りく)せられてふたたび漢に戻る気持を失ってからは、いっそうこの「漢節を持した牧羊者」との面接を避けたかった。
 狐鹿姑(ころくこ)単于(ぜんう)が父の(あと)()いでから数年後、一時蘇武が生死不明との(うわさ)が伝わった。父単于がついに降服させることのできなかったこの不屈の漢使の存在を思出した狐鹿姑単于は、蘇武の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降服を勧告するよう、李陵に頼んだ。陵が武の友人であることを聞いていたのである。やむを得ず陵は北へ向かった。
 姑且水(こじょすい)を北に(さかのぼ)り※[#「到」の「りっとう」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-67]居水(しっきょすい)との合流点からさらに西北に森林地帯を突切る。まだ所々に雪の残っている川岸を進むこと数日、ようやく北海(ほっかい)(あお)い水が森と野との向こうに見え出したころ、この地方の住民なる丁霊族(ていれいぞく)の案内人は李陵の一行を一軒の哀れな丸太小舎(ごや)へと導いた。小舎の住人が珍しい人声に驚かされて、弓矢を手に表へ出て来た、頭から毛皮を(かぶ)った(ひげ)ぼうぼうの(くま)のような山男の顔の中に、李陵がかつての移中厩監(いちゅうきゅうかん)蘇子卿(そしけい)(おもかげ)を見出してからも、先方がこの胡服(こふく)の大官を(さき)騎都尉(きとい)李少卿(りしょうけい)と認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。蘇武(そぶ)のほうでは陵が匈奴(きょうど)(つか)えていることも全然聞いていなかったのである。
 感動が、陵の内に()って今まで武との会見を避けさせていたもの[#「もの」に傍点]を一瞬圧倒し去った。二人とも初めほとんどものが言えなかった。
 陵の供廻(ともまわ)りどもの穹廬(きゅうろ)がいくつか、あたりに組立てられ、無人の境が急に(にぎ)やかになった。用意してきた酒食がさっそく小舎(こや)に運び入れられ、夜は珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。滞在は数日に(わた)った。
 (おの)が胡服を(まと)うに至った事情を話すことは、さすがに(つら)かった。しかし、李陵は少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。蘇武がさりげなく語るその数年間の生活はまったく惨憺(さんたん)たるものであったらしい。何年か以前に匈奴の於※[#「革+干」、49-11]王(おけんおう)が猟をするとてたまたまここを過ぎ蘇武に同情して、三年間つづけて衣服食糧等を給してくれたが、その於※[#「革+干」、49-12]王の死後は、()てついた大地から野鼠(のねずみ)を掘出して、飢えを(しの)がなければならない始末だと言う。彼の生死不明の(うわさ)は彼の養っていた畜群が剽盗(ひょうとう)どものために一匹残らずさらわれてしまったことの訛伝(かでん)らしい。陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を()てて他家へ行ったことはさすがに言えなかった。
 この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。それではなんのためにこうした惨憺(さんたん)たる日々をたえ忍んでいるのか? 単于(ぜんう)に降服を申出れば重く用いられることは請合(うけあ)いだが、それをする蘇武(そぶ)でないことは初めから分り切っている。陵の怪しむのは、なぜ早く(みずか)ら生命を絶たないのかという意味であった。李陵(りりょう)自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根を(おろ)して(しま)った数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。蘇武の場合は違う。彼にはこの地での係累(けいるい)もない。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも節旄(せつぼう)を持して曠野(こうや)に飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首()ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心が(きざ)したとは考えられない。李陵は、若いころの蘇武の片意地を――滑稽(こっけい)なくらい強情な痩我慢(やせがまん)を思出した。単于(ぜんう)は栄華を()に極度の困窮(こんきゅう)の中から蘇武を()ろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難に()ええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか。運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や笑止(しょうし)には見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは(まこと)(すさま)じくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人(おとな)げなく見えた蘇武の痩我慢(やせがまん)が、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろか匈奴(きょうど)の単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、(みずか)ら顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。誰一人(おの)事蹟(じせき)を知ってくれなくともさしつかえないというのである。李陵(りりょう)は、かつて先代単于(ぜんう)の首を(ねら)いながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈土(きょうど)の地を脱走しえなければ、せっかくの行為が(むな)しく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。人に知られざることを憂えぬ蘇武(そぶ)を前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。

 最初の感動が過ぎ、二日三日とたつうちに、李陵の中にやはり一種のこだわりができてくるのをどうすることもできなかった。何を語るにつけても、(おのれ)の過去と蘇武のそれとの対比がいちいちひっかかってくる。蘇武は義人(ぎじん)、自分は売国奴(ばいこくど)と、それほどハッキリ考えはしないけれども、森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた蘇武の(きび)しさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときは一溜(ひとたま)りもなく圧倒されるのを感じないわけにいかない。それに、気のせいか、()にちが立つにつれ、蘇武の己に対する態度の中に、何か富者が貧者に対するときのような――己の優越を知ったうえで相手に寛大であろうとする者の態度を感じはじめた。どことハッキリはいえないが、どうかした拍子(ひょうし)にひょいとそういうものの感じられることがある。繿縷(ぼろ)をまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな憐愍(れんびん)の色を、豪奢(ごうしゃ)貂裘(ちょうきゅう)をまとうた右校王(うこうおう)李陵(りりょう)はなによりも恐れた。
 十日ばかり滞在したのち、李陵は旧友に別れて、悄然(しょうぜん)と南へ去った。食糧衣服の類は充分に森の丸木小舎(ごや)に残してきた。
 李陵は単于(ぜんう)からの依嘱(いしょく)たる降服勧告についてはとうとう口を切らなかった。蘇武(そぶ)の答えは問うまでもなく明らかであるものを、何もいまさらそんな勧告によって蘇武をも自分をも(はずかし)めるには当たらないと思ったからである。
 南に帰ってからも、蘇武の存在は一日も彼の頭から去らなかった。離れて考えるとき、蘇武の姿はかえっていっそうきびしく彼の前に(そび)えているように思われる。
 李陵自身、匈奴(きょうど)への降服という(おのれ)の行為をよしとしているわけではないが、自分の故国につくした跡と、それに対して故国の己に(むく)いたところとを考えるなら、いかに無情な批判者といえども、なお、その「やむを得なかった」ことを認めるだろうとは信じていた。ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ぬのだ」という考えかたを許そうとしないのである。
 飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに何人(なんぴと)にも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。
 蘇武の存在は彼にとって、崇高な訓誡(くんかい)でもあり、いらだたしい悪夢でもあった。ときどき彼は人を(つか)わして蘇武の安否を問わせ、食品、牛羊、絨氈(じゅうせん)を贈った。蘇武をみたい気持と避けたい気持とが彼の中で常に闘っていた。

 数年後、今一度李陵は北海(ほっかい)のほとりの丸木小舎(ごや)(たず)ねた。そのとき途中で雲中(うんちゅう)の北方を(まも)衛兵(えいへい)らに会い、彼らの口から、近ごろ漢の辺境では太守(たいしゅ)以下吏民(りみん)が皆白服をつけていることを聞いた。人民がことごとく服を白くしているとあれば天子の()に相違ない。李陵は武帝(ぶてい)(ほう)じたのを知った。北海の(ほとり)(いた)ってこのことを告げたとき、蘇武(そぶ)は南に向かって号哭(ごうこく)した。慟哭(どうこく)数日、ついに血を()くに至った。その有様を見ながら、李陵はしだいに暗く沈んだ気持になっていった。彼はもちろん蘇武の慟哭の真摯(しんし)さを疑うものではない。その純粋な(はげ)しい悲嘆には心を動かされずにはいられない。だが、自分には今一滴の涙も(うか)んでこないのである。蘇武は、李陵のように一族を(りく)せられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列にさいしてちょっとした交通事故を起こしたために、また、彼の弟はある犯罪者を捕ええなかったことのために、ともに責を負うて自殺させられている。どう考えても漢の(ちょう)から厚遇されていたとは称しがたいのである。それを知ってのうえで、今目の前に蘇武の純粋な痛哭(つうこく)を見ているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、(たと)えようもなく清洌(せいれつ)な純粋な漢の国土への愛情(それは義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、(おさ)えようとして抑えられぬ、こんこんと常に湧出(わきで)る最も親身な自然な愛情)が(たた)えられていることを、李陵ははじめて発見した。
 李陵は(おのれ)と友とを隔てる根本的なものにぶつかっていやでも(おのれ)自身に対する暗い懐疑に追いやられざるをえないのである。

 蘇武(そぶ)の所から南へ帰って来ると、ちょうど、漢からの使者が到着したところであった。武帝(ぶてい)の死と昭帝(しょうてい)の即位とを報じてかたがた当分の友好関係を――常に一年とは続いたことのない友好関係だったが――結ぶための平和の使節である。その使いとしてやって来たのが、はからずも李陵(りりょう)故人(とも)・隴西(ろうせい)任立政(じんりっせい)ら三人であった。
 その年の二月武帝が崩じて、(わず)か八歳の太子弗陵(ふつりょう)が位を()ぐや、遺詔(いじょう)によって侍中奉車都尉(じちゅうほうしゃとい)霍光(かくこう)大司馬(だいしば)大将軍として(まつりごと)(たす)けることになった。霍光はもと、李陵と親しかったし、左将軍となった上官桀(じょうかんけつ)もまた陵の故人であった。この二人の間に陵を呼返そうとの相談ができ上がったのである。今度の使いにわざわざ陵の昔の友人が選ばれたのはそのためであった。
 単于(ぜんう)の前で使者の表向きの用が済むと、盛んな酒宴が張られる。いつもは衛律(えいりつ)がそうした場合の接待役を引受けるのだが、今度は李陵の友人が来た場合とて彼も引張り出されて宴につらなった。任立政は陵を見たが、匈奴(きょうど)の大官連の並んでいる前で、漢に帰れとは言えない。席を隔てて李陵を見ては目配せをし、しばしば(おのれ)刀環(とうかん)()でて暗にその意を伝えようとした。陵はそれを見た。先方の伝えんとするところもほぼ察した。しかし、いかなるしぐさをもって(こた)えるべきかを知らない。
 公式の宴が終わった後で、李陵・衛律らばかりが残って牛酒と博戯(ばくぎ)とをもって漢使をもてなした。そのとき任立政が陵に向かって言う。漢ではいまや大赦令(たいしゃれい)が降り万民は太平の仁政(じんせい)を楽しんでいる。新帝はいまだ幼少のこととて君が故旧たる霍子孟(かくしもう)・上官少叔(じょうかんしょうしゅく)が主上を(たす)けて天下の事を用いることとなったと。立政は、衛律(えいりつ)をもって完全に胡人(こじん)になり切ったものと見做(みな)して――事実それに違いなかったが――その前では明らさまに陵に説くのを(はばか)った。ただ霍光(かくこう)上官桀(じょうかんけつ)との名を()げて陵の心を()こうとしたのである。陵は(もく)して答えない。しばらく立政(りっせい)を熟視してから、(おの)が髪を()でた。その髪も椎結(ついけい)とてすでに中国のふうではない。ややあって衛律が服を()えるために座を退いた。初めて隔てのない調子で立政が陵の(あざな)を呼んだ。少卿(しょうけい)よ、多年の苦しみはいかばかりだったか。霍子孟(かくしもう)上官少叔(じょうかんしょうしゅく)からよろしくとのことであったと。その二人の安否を問返す陵のよそよそしい言葉におっかぶせるようにして立政がふたたび言った。少卿よ、帰ってくれ。富貴(ふうき)などは言うに足りぬではないか。どうか何もいわずに帰ってくれ。蘇武(そぶ)の所から戻ったばかりのこととて李陵も友の切なる言葉に心が動かぬではない。しかし、考えてみるまでもなく、それはもはやどうにもならぬことであった。「帰るのは(やす)い。だが、また(はずか)しめを見るだけのことではないか? 如何(いかん)?」言葉半ばにして衛律が座に(かえ)ってきた。二人は口を(つぐ)んだ。
 会が散じて別れ去るとき、任立政はさりげなく陵のそばに寄ると、低声で、ついに帰るに意なきやを今一度尋ねた。陵は頭を横にふった。丈夫(じょうふ)ふたたび辱めらるるあたわずと答えた。その言葉がひどく元気のなかったのは、衛律に聞こえることを(おそ)れたためではない。

 後五年、昭帝の始元(しげん)六年の夏、このまま人に知られず北方に窮死(きゅうし)すると思われた蘇武(そぶ)が偶然にも漢に帰れることになった。漢の天子が上林苑(じょうりんえん)中で得た(かり)の足に蘇武の帛書(はくしょ)がついていた云々(うんぬん)というあの有名な話は、もちろん、蘇武(そぶ)の死を主張する単于(ぜんう)を説破するためのでたらめである。十九年前蘇武に従って胡地(こち)に来た常恵(じょうけい)という者が漢使に()って蘇武の生存を知らせ、この(うそ)をもって()救出(すくいだ)すように教えたのであった。さっそく北海(ほっかい)の上に使いが飛び、蘇武は単于の(てい)につれ出された。李陵(りりょう)の心はさすがに動揺した。ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心の(しもと)たるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然(しゅくぜん)として(おそ)れた。今でも、(おのれ)の過去をけっして非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰(けんしょう)されることになったという事実は、なんとしても李陵にはこたえた[#「こたえた」に傍点]。胸をかきむしられるような女々(めめ)しい己の気持が羨望(せんぼう)ではないかと、李陵は極度に(おそ)れた。
 別れに臨んで李陵は友のために宴を張った。いいたいことは山ほどあった。しかし結局それは、()(くだ)ったときの(おのれ)の志が那辺(なへん)にあったかということ。その志を行なう前に故国の一族が(りく)せられて、もはや帰るに由なくなった事情とに尽きる。それを言えば愚痴(ぐち)になってしまう。彼は一言もそれについてはいわなかった。ただ、宴(たけなわ)にして堪えかねて立上がり、舞いかつ歌うた。

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径万里兮度沙幕(ばんりをゆきすぎさばくをわたる)
為君将兮奮匈奴(きみのためしょうとなってきょうどにふるう)
路窮絶兮矢刃摧(みちきゅうぜつししじんくだけ)
士衆滅兮名已※[#「こざと+貴」、第3水準1-93-63(ししゅうほろびなすでにおつ)
老母已死(ろうぼすでにしす)雖欲報恩将安帰(おんにむくいんとほっするもまたいずくにかかえらん)
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 歌っているうちに、声が(ふる)え涙が(ほお)を伝わった。女々(めめ)しいぞと(みずか)(しか)りながら、どうしようもなかった。
 蘇武(そぶ)は十九年ぶりで祖国に帰って行った。

 司馬遷(しばせん)はその後も孜々(しし)として書き続けた。
 この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみ()きていた。現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が、魯仲連(ろちゅうれん)舌端(ぜったん)を借りてはじめて烈々(れつれつ)と火を噴くのである。あるいは伍子胥(ごししょ)となって(おの)が眼を(えぐ)らしめ、あるいは藺相如(りんしょうじょ)となって秦王(しんおう)(しっ)し、あるいは太子丹(たいしたん)となって泣いて荊軻(けいか)を送った。()屈原(くつげん)憂憤(うっぷん)を叙して、そのまさに汨羅(べきら)に身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦(かいさのふ)を長々と引用したとき、司馬遷にはその賦がどうしても(おのれ)自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった。
 稿を起こしてから十四年、腐刑(ふけい)(わざわい)()ってから八年。都では巫蠱(ふこ)の獄が起こり戻太子(れいたいし)の悲劇が行なわれていたころ、父子相伝(ふしそうでん)のこの著述がだいたい最初の構想どおりの通史(つうし)がひととおりでき上がった。これに増補改刪(かいさん)推敲(すいこう)を加えているうちにまた数年がたった。史記(しき)百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、すでに武帝(ぶてい)崩御(ほうぎょ)に近いころであった。
 列伝(れつでん)第七十太史公(たいしこう)自序の最後の筆を()いたとき、司馬遷は()()ったまま惘然(ぼうぜん)とした。深い溜息(ためいき)が腹の底から出た。目は庭前の槐樹(えんじゅ)の茂みに向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった。うつろな耳で、それでも彼は庭のどこからか聞こえてくる一匹の(せみ)の声に耳をすましているようにみえた。(よろこ)びがあるはずなのに気の抜けた漠然(ばくぜん)とした寂しさ、不安のほうが先に来た。
 完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をするまではそれでもまだ気が張っていたが、それらが終わると急に(ひど)い虚脱の状態が来た。憑依(ひょうい)の去った巫者(ふしゃ)のように、身も心もぐったりとくずおれ、まだ六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったように()けた。武帝の崩御(ほうぎょ)も昭帝の即位もかつてのさきの太史令(たいしれい)司馬遷(しばせん)脱殻(ぬけがら)にとってはもはやなんの意味ももたないように見えた。
 前に述べた任立政(じんりっせい)らが胡地(こち)李陵(りりょう)(たず)ねて、ふたたび都に戻って来たころは、司馬遷はすでにこの世に()かった。

 蘇武(そぶ)と別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。元平(げんぺい)元年に胡地(こち)で死んだということのほかは。
 すでに早く、彼と親しかった狐鹿姑(ころくこ)単于(ぜんう)は死に、その子|壺衍※[#「革+是」、第3水準1-93-79(こえんてい)単于の代となっていたが、その即位にからんで左賢王(さけんおう)右谷蠡王(うろくりおう)の内紛があり、閼氏(えんし)衛律(えいりつ)らと対抗して李陵も心ならずも、その紛争にまきこまれたろうことは想像に(かた)くない。
 漢書(かんじょ)匈奴伝(きょうどでん)には、その後、李陵の胡地で(もう)けた子が烏籍都尉(うせきとい)を立てて単于とし、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)に対抗してついに失敗した旨が記されている。宣帝(せんてい)五鳳(ごほう)二年のことだから、李陵が死んでからちょうど十八年めにあたる。李陵の子とあるだけで、名前は記されていない。

青空文庫

底本:「李陵・山月記・弟子・名人伝」角川文庫、角川書店
   1968(昭和43)年9月10日改版初版発行
   1998(平成10)年5月30日改版52版発行
入力:佐野良二
校正:松永正敏
2001年3月14日公開
2005年11月1日修正
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